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【ギリシャ】メテオラ  [ギリシャ]

メテオラは、ギリシア北西部、セサリア(テッサリア)地方北端の奇岩群とその上に建設された修道院共同体、いわゆるメテオラ修道院群の総称である。その地形及びギリシア正教の修道院文化の価値からユネスコ世界遺産(文化・自然複合遺産)に指定されている。その名はギリシア語で「中空の」を意味する「メテオロス」という言葉に由来している。

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修道院の歴史
メテオラの険しい地形は、俗世との関わりを断ち祈りと瞑想に生きるキリスト教の修道士にとっては理想の環境と見なされ、9世紀には既に、この奇岩群に穿たれた洞穴や岩の裂け目に修道士が住み着いていた。この時代の修道士は現在のような修道院共同体を形成することはなく、単独で修行する隠修士が主流であった。

メテオラに修道院共同体が成立したのは、14世紀、セルビア王国がセサリア地方に勢力を拡大してくる時代であるといわれる。それまで東ローマ帝国で修道院活動の中心を担っていたアトス山は、1346年にはセルビア領の中に組み込まれた。セルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンはアソスの修道院に多大な保護を与え、その活動を奨励したが、当時の戦乱を避けて多くの修道士がアソスを出て南下し、メテオラに住み着いた。その一人が修道士アサナシオスで、彼はメテオラに主の変容(メタモルフォシス)修道院を創立した。アサナシオスはアトスに於ける修道院共同体の様式、いわゆるキノヴィオン(共住)を導入して修道院共同体の確立に努めた。これらに前後して、聖ニコラオス、聖ステファノスなどの修道院も創立されている。


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アサナシオスの活動は、その高弟でセルビア王家の出身でもある修道士ヨアサフによって受け継がれることになった。ドゥシャン王の異母弟でセサリア君主の座に就き、メテオラにも保護を与えていたシメオン・ウロシュ・パレオロゴスの息子であるヨアサフは、早くからこの地の修道士と交流を持ち、セサリアの支配権と俗世の生活を捨ててメテオラに隠退した。1384年の師アサナシオスの死後、彼は変容修道院の院長に就任し、主聖堂の再建など、修道院の整備に尽力した。

1393年から翌1394年にかけて、バルカン半島に支配権を広げていたオスマン朝はセサリアをも併合した。長い異教徒支配の時代がここに始まり、初期には異教徒支配を嫌い、アソスに移住する修道士も見られたが(ヨアサフもその一人である)、オスマン朝はメテオラの修道院に一定の保護を与えその活動を保証したので、間もなく修道士も戻り、変わりなく修道活動が継続された。1490年には変容修道院がメテオラの全修道院を統括する存在となり、「大メテオロン」の異称が一般化していく。15世紀後半には至聖三者(アギア・トリアダ)修道院が、16世紀にはヴァルラアム修道院とルサヌ修道院がそれぞれ現在の形で創立された。この時代には「クレタ派」と呼ばれるイコンの流派がこの地で活動し、現在も残る数多くの傑作フレスコ画を残している。

メテオラを含むセサリア地方の大半は露土戦争後の1881年にギリシア王国領に編入された。近代国家の中でも修道院活動は続いたが、近年は新たな問題が持ち上がってきた。メテオラの風光明媚な景色と修道院文化への関心からこの地域も観光地化が進み、世俗を避ける修道士にとっては活動に適さなくなりつつある。そのため、メテオラを捨てより閉鎖的なアトス山に移住する修道士が増加している。争乱の時代にアソスを捨てた修道士によって建設されたメテオラ修道院共同体であるが、今度は近代化の波の中で逆の現象が生じたのである。なお、20世紀に入り、二つの修道院が女子修道院に改組されて現在に至っている。

メテオラの修道院 2012年現在、6つの修道院が活動中である。

(Quoted from Wikipedia)


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