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【オランダ】ユトレヒト、秋のアウデグラフト運河  [オランダ]




ユトレヒト(オランダ語: Utrecht )は、オランダのユトレヒト州にある基礎自治体(フメーンテ)。オランダ第4の都市であり、ユトレヒト州の州都でもある。首都アムステルダムから30キロほど南に位置する。

ユトレヒトは8世紀よりオランダの宗教の中心であった。現在でもオランダ・カトリック教会で最も重要な地位をユトレヒト大司教が担っている。また、復古カトリック教会の大主教座や、プロテスタント教会の教区事務所もユトレヒトに置かれている。17世紀に始まるオランダ黄金の時代にアムステルダムがその地位を奪うまで、ユトレヒトは北オランダ(現在のオランダ国土と言う意味で、ベルギーやルクセンブルクは除く)で最も重要な都市であった。

また、ユトレヒトにはオランダ最大の大学であるユトレヒト大学が置かれていたり、国土のほぼ中央付近という地理的条件より、各地からの道路や鉄道網の重要な結節点となっている。

【オランダ】ユトレヒト、秋のアウデグラフト運河1.jpg


歴史
ユトレヒトの起原はローマ帝国が47年頃に建てた要塞である。これは現在よりも北を流れており、ローマ帝国の国境であるライン川河畔にあった。ラテン語名はトライェクトゥム(歩いて渡れる場所の意)という。500人ほどの規模の軍隊が駐留しており、職人、貿易商人、兵士の妻や子供からなる入植地があった。

2世紀の半ばにはゲルマン人がたびたび侵入し、270年頃ローマ軍はユトレヒトを放棄した。270年頃から500年頃のユトレヒトについてはあまり知られていない。6世紀になると、ユトレヒトはフランク人の勢力下に置かれるようになった。

中世を通じて、ユトレヒトは北ネーデルラントでもっとも重要な都市であった。通常はウィリブロルドゥス (Willibrordus) がユトレヒトの最初の司教であったと考えられている。695年、ウィリブロルドはフリースラントの大司教に任命される。703年または704年、さらに北の地方で宣教を行うため、ヘルスタルのピピン2世がユトレヒトを領地としてウィリブロルドへ与えた。1122年、ユトレヒトは都市権を得た。

のちに、ユトレヒト司教はユトレヒト州だけでなく北東の地域でも世俗的な権力をもつようになった。1528年、カール5世はネーデルラント17州(現在のベルギー・ルクセンブルク・オランダ・北フランスを含む)の領主となり、下スティヒトおよび上スティヒトの世俗権力は教会からカール5世へと移った。

1579年、ネーデルラント北部7州はユトレヒト同盟に調印し、スペインの支配に抵抗することを決意した。ユトレヒト同盟はオランダのはじまりとみなされている。1580年、プロテスタントの政府がユトレヒト司教座を含む司教座の廃止を決め、1853年に復活するまでユトレヒトにカトリックの司教座がおかれることはなかった。

1713年、ユトレヒト条約がスペイン継承戦争の和平条約として締結され、このときジブラルタルがイギリス領となった。

1843年、ユトレヒトとアムステルダムを結ぶ鉄道が開通した。これ以後、ユトレヒトは次第にオランダの鉄道網の中心となっていった。第二次世界大戦以後、街は発展し、近隣にKanaleneiland, Hoograven, Lunetten, Leidsche Rijn などの都市が開発された


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